西郷隆盛銅像

西南戦争で官軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃しました。
没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけて製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の軍服姿で、城山を背景に仁王立ちする堂々たるモニュメントです。
本体5.76メートル、土台1.21メートル、築山7.27メートル。

 

西郷隆盛生誕地

加冶屋町は、大久保利通、大山巌、東郷平八郎など明治維新で活躍した多くの偉人を輩出した場所です。
西郷隆盛は文政10年(1828年)、12月7日に鹿児島城下の下加治屋町に生まれました。
父・吉兵衛、母・政子の間に7人兄弟の長男で、幼名は吉之助。
育った家は、鹿児島城下を流れる甲突川の河畔地域にあり,敷地は明治時代より公園化され今も守られています。
鹿児島には「郷中(ごじゅう)教育」とよばれる教育システムがあり、町内の区画を一つの「郷中」とし、そのグループの中で年長者が年少者の教育を行いました。
郷中では武芸や道徳教育など心身の鍛錬が毎日行われました。
子弟たちは、だいたい6歳くらいで郷中に入り、6歳〜15歳を稚児、15〜25歳を二才といいました。西郷は24歳まで下加冶屋町郷中頭として若者を指導しました。(通常,郷中頭は18歳くらいで郷中を卒業します。)

 

 

西郷南洲翁宅地跡

共研公園の北口入口に「西郷南洲翁宅地跡」と書かれた石碑があります。安政2年(1855年)、西郷隆盛が29歳のころ移ってきました。祖父、父、母を相次いで失い、下加治屋町の屋敷を売り借金の返済にあてたといわれています。明治2年まで住み、武村の屋敷を購入し転居しました。坂本龍馬も訪れたといわれています。

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僧月照の墓

安政5年(1858年)11月16日の明け方近く、三船の沖でのことです。
「バッシャーン!」西郷と月照は抱き合って錦江湾に身を投じました。
月照は、大老井伊直弼による志士の弾圧(安政の大獄)で、幕府の罪人として追われる身となったのです。そして西郷とともに薩摩へ逃亡してきたのですが、島津斉彬亡き後の藩内はとても罪人をかくまうような状態ではありませんでした。藩は西郷に、月照を日向へ送るように命じました。
当時薩摩では、日向へ送るものを「永送り」といって、国境で切り捨てる習わしでした。
それを十分承知した上での入水だったのでしょう。
結局,月照は帰らぬ人となり、西郷は息を吹き返しました。

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西郷家の墓

この墓所は、西郷隆盛の祖先とその一族の墓地です。
西郷隆盛の両親の墓をはじめとして、江戸時代中期からの代々の墓や23基の古い墓石が3列に並んでおり、大正11年(1922年)8月、南林寺墓地(現在の松原町から南林寺町一帯にかけてあった墓地)からこの地に改葬されました。
墓地の入口近く、やや大きめの墓石が隆盛の弟吉二郎の墓です。
吉二郎は、明治元年(1868年)8月戊辰戦争で負傷、戦死しています。
隆盛と愛加那の間に生まれ、京都市長などの要職を歴任した菊次郎もここに眠っています。
また、隆盛が徳之島流謫中に世話になった島役人仲為の子仲祐の墓があります。
仲祐は、慶応2年(1866年)10月の隆盛上京の折り同行を許されましたが、12月京都に没しました。
さらに奥には、吉田茂が墓碑銘を書いた西郷家の墓が新しく建てられています。

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西郷隆盛洞窟

鹿児島県鹿児島市城山町

明治10年(1877年)2月、鹿児島城下を出発した西郷軍ですが、九州各地で転戦したのち、8月で解散。その後、西郷隆盛の一行は九州山地を越えて鹿児島を目指し、9月1日、城下に戻り、城山に立て籠もりました。
9月24日、官軍の総攻撃が始まり、この洞窟を出た西郷隆盛は岩崎谷へと下ります。
西郷が桐野利秋、別府晋平、村田新八、池上四朗といった西郷軍の幹部とともに最後の五日間を過ごした洞窟と言われています。
最終的には鹿児島の城山に立てこもった西郷軍を官軍が囲い込み、西南戦争は終焉を迎えました。
隣にある、アリヨシ民芸品店 城山店の脇には西郷隆盛の銅像があります。

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西南戦争薩軍本営跡

鹿児島県鹿児島市城山町22

 

 

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西郷隆盛終焉之地

 

 

鹿児島県鹿児島市城山町

明治10年(1877年)年9月24日未明、城山を包囲した官軍は一斉に砲撃を開始し、西郷軍は敵陣めがけて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われています。
介錯を行った別府晋介も自刃し、西郷の切腹を見守っていた桐野利秋、村田新八などは再び岩崎口に突撃して戦死し、西南戦争が終結しました。

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私学校跡石塀

鹿児島県鹿児島市城山町8

明治6年(1873年)の政変に敗れた西郷は参議を辞任して鹿児島へと戻ってきます。その際、西郷に従い新政府の役職を辞職してきた人々を中心にして、私学校が設立されます。国難に際しての兵士養成が初期の目的でしたが、旧士族の不平不満の受け皿としての役割も担うようになり、後の西南戦争へ発展するきっかけになりました。西南戦争の弾痕も残っています。

 

 

南洲墓地・南洲公園

鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1(南洲公園内)

 

西郷隆盛をはじめ、西南戦争で戦った西郷軍2023名が眠る墓地です。南洲墓地は昭和30年(1955年)1月14日に鹿児島県指定史跡に登録されています。
墓石には、「抱き菊」といって、二枚の葉が十六の花弁を抱いた紋形のものもあります。これは明治天皇が維新の大業をなしとげた隆盛の功を賞して下賜されたものだそう。また、西郷と深い親交があった勝海舟が亡き友のために詠んだ歌碑なども建てられています。
参拝する人々が多くなり、明治13年(1880年)に設けられた参拝所は、大正11年(1922年)西郷隆盛を祭る南洲神社となりました。

 

官軍戦没者慰霊塔

鹿児島県鹿児島市清水町26

西南戦争で亡くなった政府軍(官軍)の慰霊塔。かつては同地に墓地がありました。

 

西郷隆盛蘇生の家

鹿児島県鹿児島市吉野町

西郷隆盛が京都清水寺の僧月照と入水後、目覚めた時には,月照はすでにこの世の人ではありませんでした。
安政5年(1858年)井伊直弼の安政の大獄によって追われる身となった月照は、公家の近衛忠熙が西郷に依頼して、鹿児島に逃れました。
しかし,斉彬の亡き後の藩は、月照を日向国に追及すると決めました。絶望した西郷は月照と相抱いて冬の海に身を投じましたが、西郷のみがこの家(復元)で、一命をとりとめ介抱されました。
藩は西郷が蘇生したにもかかわらず、その死を幕府に届け、菊池源吾と改名させ大島にかくまいました。
一人生き残ったことを知った西郷は、自らを「土中の死骨」と呼び、生涯恥じたそうです。
その後は常に死と直面しながら信義を貫く生きざまを示しました。

 

 

 

仙巌園・尚古集成館

鹿児島市吉野町9700-1

ユーチューブ動画

鹿児島市吉野町9700-1

TEL:099-247-1551
営業時間:8:30〜17:30
入場料等は公式HPをご確認ください。
http://www.senganen.jp/

尚古集成館では、幕末の薩摩藩が果たした役割について、島津家の歴史、海外とのかかわりなどの視点から学ぶことができます。付近一帯は、西郷隆盛を見いだした島津斉彬が起こした「集成館事業」が行われた場所で、尚古集成館本館と、仙巌園内の反射炉跡が、2015年世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産に登録されています。

 

駄馬落の碑

鹿児島県鹿児島市吉野町2536−10

 

 

明治6年(1873年)の政変に敗れた西郷隆盛は、吉野台地に寺山開墾社を建て、84人の有志と共に農業にいそしみ、自らも武村に自宅からよく出掛けていきました。
三月のある日、寺山開墾社からの帰りに、吉野町帯迫でサツマイモ(鹿児島では唐芋といいます)を二俵わけてもらい坂を下っていたところ、崖が崩れて足場が悪い道があった為、馬が二メートルほど下の畑に落ちてしまいました。
西郷さんは不意の事で、手のつけようもなく土手の上に突っ立って考えこんでいました。近所の子供が知らせて、近所の者数人で引き上げ、荷も付け直してあげたそうです。西郷さんは、「馬引きの俺が下手だから困ったものだよ」と笑いながら言って、お礼を述べたそうです。またこんな事があっては大変と一人が、坂の下まで付き添っていったそうです。
碑には、「積み荷は唐芋、引き手は西郷南洲翁」と記されています。
維新の三傑と呼ばれるほどの人物が馬の扱いは苦手だった事を伝えると共に、飾り気のないその性格が、民衆に愛されたという事を今に伝える話です。

 

南洲翁開墾の地の碑

鹿児島県鹿児島市吉野町(寺山自然遊歩道)

鹿児島中央駅から車で約30分

 

 

 

有村温泉

鹿児島県鹿児島市有村町

桜島港から車で10分

 

 

有村温泉は大正3年の桜島噴火で消失した温泉地です。
大正3年の噴火で埋没しましたが、江戸時代を通じての温泉地で、当時は海岸に隣接する場所に湯小屋が並んでおり、船着場とも近く鹿児島から訪れるにも便利でした。
西郷隆盛は、明治9年(1876年)に訪れており、西南戦争が起こる前のまだ穏やかな時期でありました。
近くの有村海岸では砂浜を掘ってマイ足湯を掘ることもできます。

 

西郷南洲野屋敷の跡

 

鹿児島市西別府町