DSCSAトレース&トラック:偽薬から患者を守る仕組み

投稿者 安藤香織
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27
1月
DSCSAトレース&トラック:偽薬から患者を守る仕組み

2024年11月27日、アメリカの薬品供給チェーンに大きな変化が訪れます。それまで紙で管理されていた薬の流通情報が、すべて電子化され、DSCSAという新しいシステムで一貫して追跡可能になります。この変更は、偽薬や汚染された薬が市場に流れ込むのを防ぐために、10年以上かけて準備されてきました。今や、薬局、卸売業者、製薬会社のすべてが、1つのパッケージごとに固有の番号を付け、その情報をリアルタイムで共有しなければなりません。

DSCSAとは何か?

DSCSA(Drug Supply Chain Security Act)は、2013年にアメリカ連邦政府が制定した法律です。その目的は単純明快です:患者が偽薬や危険な薬を飲まないようにすること。これまで、薬は製薬会社から卸売業者、薬局へと渡るたびに、紙の伝票で情報がやりとりされていました。その中には、製品番号、ロット番号、有効期限が記載されていましたが、偽薬が混ざっても気づかないことが多々ありました。DSCSAは、その脆弱なシステムを一掃し、すべての処方薬に「シリアル番号」と呼ばれる一意のIDを付けて、電子的に追跡できるようにするものです。

このシステムは、製造者、卸売業者、リパッケージャー、薬局の4つの「取引パートナー」に義務を課しています。どの段階でも、薬の正しさを確認できるようにするためです。たとえば、薬局が新しい薬を仕入れたとき、そのシリアル番号を製薬会社のデータベースと照合して「本物か?」を瞬時に確認できるようになります。偽薬が入ってきたら、その瞬間にブロックできるのです。

どうやって偽薬を防ぐの?

DSCSAの核心は、3つの情報と1つの番号です。

  • 製品識別子:各薬のパッケージには、製品番号(NDC)、ロット番号、有効期限、そして20文字のシリアル番号が印刷されています。この番号は、誰にもコピーできないように設計されています。
  • 取引情報(TI):薬の種類、ロット、シリアル番号、数量などの基本情報。
  • 取引履歴(TH):その薬がこれまでどこを経由してきたかの記録。
  • 取引声明(TS):「この薬は合法的に流通しています」という証明書。

これらの情報は、すべて電子データとしてやりとりされます。かつては、卸売業者が薬局に薬を納品するたびに、紙の伝票を渡していたのが、今ではシステム同士が自動でデータを交換します。これにより、偽薬の発見が数日から数時間に短縮され、誤ったリコール(回収)も減りました。

たとえば、あるロットの薬に問題が見つかった場合、従来なら「この薬全体を回収」するしかありませんでした。DSCSAでは、シリアル番号で特定のパッケージだけを対象にできるので、患者への影響を最小限に抑えられます。

EUとどう違うの?

ヨーロッパでは「偽薬指令(FMD)」という同じようなシステムが2019年から運用されています。しかし、DSCSAとは大きな違いがあります。

EUのFMDは、薬のパッケージに「偽装防止シール」を貼ることを義務付けています。また、すべてのデータを中央のデータベースに集めます。一方、DSCSAは中央のデータベースを設けません。代わりに、各企業が自分のシステムで情報を保持し、必要に応じて相互にやりとりする「分散型」の仕組みです。

この違いは、実装のしやすさとコストに直結します。EUのシステムは、すべての薬に物理的なセキュリティ機能を追加する必要があり、製造コストが上がりました。DSCSAは、既存の包装にシリアル番号を印刷するだけで済むため、初期投資は抑えられますが、代わりにITシステムの互換性が課題になります。

小さな薬局で薬剤師が不正薬の警告画面を見つめている。

実装の壁:技術とコスト

理論はシンプルですが、現実の実装は非常に難しいです。

まず、コストの問題があります。中規模の薬局では、DSCSA対応のシステム導入に10万~50万ドル(約1,500万~7,500万円)かかるとされています。独立した小さな薬局では、その負担が重く、2023年の調査では68%の薬局が「DSCSA対応が最大の課題」と答えています。

次に、システムの互換性の問題です。製薬会社のシステムと卸売業者のシステム、そして薬局のシステムは、それぞれ違うベンダーのソフトウェアを使っています。そのせいで、シリアル番号が一致しない、ロット番号の書式が違う、といったデータの不整合が頻発しています。Redditの薬剤師コミュニティでは、「薬の検証に2~3日かかって、患者に薬を渡せない」という苦情がよく上がっています。

大手企業は比較的順調です。マッケソン社は、2020年以降で12億件以上のシリアルトランザクションを処理し、99.98%の正確さを維持しています。CVSヘルスは、自動検証システムの導入で、不審薬の調査を75%減らすことに成功しました。

しかし、小さな薬局では話が違います。ある独立薬局の経営者は、「システムの導入で従業員の半分が研修に費やされ、日常の業務が滞った」と語っています。

2024年11月27日:最終期限

2024年11月27日は、DSCSAの「最終ステージ」が本格的に始まる日です。それまでに、すべての取引パートナーが、パッケージ単位での電子追跡を完全に実装しなければなりません。

FDAは、この日を「ステーブル化期間」の終了日と位置づけています。つまり、それまでにシステムの不具合を修正し、互換性を整える時間として、2023年11月から2024年11月までを猶予期間としてきました。この期間中に、多くの企業がテストを終え、本番環境に移行しています。

2023年9月、FDA長官のロバート・カルフィル氏は、「規制当局はこの期間中、厳格な執行は控えるが、2024年11月以降は、すべての企業が完全に準拠していることを期待する」と明言しました。

北米全体を結ぶ薬の追跡ネットワークに、偽薬が切断されるシーン。

今後の展開:OTC薬にも拡大?

DSCSAは、現在は「処方薬」にしか適用されていません。しかし、FDAはすでに「高リスクの市販薬(OTC)」にも同様の追跡システムを導入する可能性を検討しています。

たとえば、糖尿病や高血圧の治療薬は、市販薬でも人気があり、偽薬のターゲットになりやすいです。FDAは、これらの薬をDSCSAの対象に加えることで、さらに患者の安全を高めたいと考えています。

将来的には、薬の追跡が、製造から患者の手元まで、完全にデジタルでつながる世界が実現します。その先には、AIが異常な流通パターンを自動で検知し、偽薬の流入を事前に防ぐシステムも登場するかもしれません。

成功の鍵:協力と継続

DSCSAは、単なる技術的なシステムではありません。人間と企業の協力の上に成り立つ仕組みです。

製薬会社は、正しいシリアル番号を生成しなければなりません。卸売業者は、データを正確に転送しなければなりません。薬局は、受け取った薬をきちんと検証しなければなりません。どれか一つが手を抜いたら、全体が機能しなくなります。

2023年の調査では、製薬会社の98%、卸売業者の95%がDSCSA対応を完了しています。しかし、薬局ではまだ72%しか完了していません。特に、独立薬局の導入率は58%と低いままです。

この差を埋めるには、単に「システムを買う」だけでは足りません。従業員の教育、業務フローの見直し、ベンダーとの継続的な連携が必要です。FDAの学習ポータルや、医療流通協会が提供するガイドラインは、無料で利用できます。それらを活用しないのは、大きな機会損失です。

最終的に、DSCSAが成功するかどうかは、すべての関係者が「患者の安全」を最優先に考えられるかどうかにかかっています。技術は進化しています。でも、人間の責任と誠実さが、偽薬を防ぐ最後の砦なのです。

DSCSAは日本の薬にも影響するの?

いいえ、DSCSAはアメリカの連邦法であり、日本の薬品流通には直接適用されません。ただし、アメリカ向けに薬を輸出する日本の製薬会社は、DSCSAに準拠しなければアメリカ市場で販売できません。そのため、多くの日本企業はDSCSA対応のシステムを導入しています。日本国内の薬の追跡は、別途「薬事法」に基づく制度で管理されています。

偽薬はどれくらい多いの?

アメリカでは、合法的な薬品流通経路に流入する偽薬は全体の約1%と推定されています。これは、年間50億件の処方薬のうち、5千万件に相当します。しかし、この数字は、未発見の偽薬を含まないため、実際はもっと多い可能性があります。DSCSAが完全に機能すれば、FDAは偽薬の発生を90%以上減らすと予測しています。

薬局がDSCSAに未対応だとどうなるの?

2024年11月27日以降、DSCSAに準拠していない薬局は、他の取引パートナーから薬を受け取れなくなります。つまり、仕入れができなくなり、営業が不可能になります。FDAは、違反した企業に対して警告書を発行し、販売停止や罰金を科す可能性があります。2022年には、地域の卸売業者が「不審薬の調査を怠った」として公式に警告を受けた事例があります。

シリアル番号はどこに書いてあるの?

薬のパッケージ(ボトルや箱)の側面や底面に、20文字の英数字で書かれています。これは、人間が読める形(文字)と、機械が読める形(バーコードや2Dコード)の両方で表示されます。薬局では、スキャナーで読み取って、システムと照合します。手で入力することはできません。

DSCSAの導入で薬の値段は上がるの?

直接的には、薬の価格に反映されません。しかし、製薬会社や卸売業者がシステム導入に多額の投資をした分、そのコストが間接的に供給コストに影響する可能性はあります。ただ、偽薬による医療費の無駄遣いや、リコールのコストが減るため、全体としては医療システムの効率化につながると考えられています。